ミヤシタパーク
渋谷駅東口の北側に宮下公園という区立公園がある。いや、厳密にいえば「あった」だろうか。
JRの線路と明治通りに沿って存在するその場所は、7月に「ミヤシタパーク」なる施設へと生まれ変わった。公園と商業施設を一体化させたもので、渋谷区と三井不動産のPPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ)事業の一つとなっている。
渋谷駅東口といえば、2010年代以降は渋谷ヒカリエの開業や東急東横線渋谷駅の地下化、渋谷ストリームの開業など再開発が進行している地域だ。この「ミヤシタパーク」もその一環なのだろう。
宮下公園は、渋谷では数少ない「緑」のある場所として親しまれてきた。
木々が生い茂り、少し薄暗かったその場所はスケボー少年のたまり場になっていたり、ホームレスが生活していたり、いわゆる「治安の悪い場所」だった。
そんな場所が、このほど綺麗に生まれ変わったのである。さぞ素晴らしい場所なのだろう。実際に行ってみて、いかに素晴らしいのかを見てくることにした。
渋谷駅は絶賛工事中なので、行くたびに地下道の出口がわからなくなる。
田園都市線を降りてB2の階段を上り、ビックカメラの脇を通るとミヤシタパークは現れる。地上3階のショッピングセンターの屋上に「公園」がついた巨大な建物だ。
まずは「公園」に、エスカレーターを使って行ってみる。
カマボコ型の、屋根とも言えない柱が並ぶ。都会の小さな空をいかに大きく見せるかに苦心したことが窺える。もっとも、左右にビルが立ち並んでおり、スポーツクラブの屋上にあるフットサル場のようなサイズ感ではあるが。
「有料」で借りることのできるビーチバレー場があるほか、スターバックスの店舗もありオシャレ感を演出している。
人々は芝生の上で寝転がったり、談笑したりしている。やはり、かつての宮下公園との違いはこうしたところだろう。
あの薄暗い宮下公園では見受けられなかった光景だ。
それでは、階下のショッピングセンターに行ってみよう。
2階と3階は「ショッピングセンター」になっている。PRADAやCOACH、GUCCIにLouis Vuittonといったブランドの看板が目立つ。そのほか、カフェや雑貨屋、レコードショップなど幅広く揃っている。
人々は狭く薄暗い通路を行き交い、ときどき”密”になりながらも、各々ショッピングを楽しんでいるようだった。
私が特に気になったのは、書店だ。
ショッピングセンターなのだから、書店の一つぐらいあって当然だと思っていたが、そこはきちんと押さえているようだった。問題なのは中身だ。
「よそとは違う」とでも言いたげな品揃えとなっており、写真集が中心であるほかホリ〇モンの自己啓発本やビジネス本が充実。専門書や学術書はおろか、新書や小説も置かないという徹底ぶりで、その「新しさ」に驚いてしまった。
最近流行りの本屋とカフェが融合した店舗で、むしろカフェの要素のほうが大きかった。その点を総合すると、自己啓発本の類で十分である理由もなんとなく理解できた。
通路は、内部に一本と外階段の2つだ。感想としては、いまいち移動しやすい動線ではないということだ。お客同士が”密”状態になってしまうのも致し方ないだろう。
さて、1階に降りてみよう。
1階は「渋谷横丁」なるレストラン街になっている。
北海道から沖縄、さらには韓国の料理が楽しめる施設となっている。お酒も楽しめるようで、人々はコロナ禍であるという事実をものともせず会食を楽しんでいた。
表通りだけでなく内部にも「横丁」スタイルで店が並ぶ。
さて、渋谷の魅力の一つには「多様性」がある。いろんな立場や考え方の人々を包摂するのが渋谷という街だし、渋谷区はLGBTパートナーシップ条例もいち早く導入した。
そして、宮下公園でたむろしていたスケボー少年も、生活していたホームレスも、その「多様性」の一つだ。彼らがいたことも、この街の居心地の良さだった。
だが、どうもミヤシタパークのいう「多様性」には「例外」があるようだ。
施設にはこんな張り紙がしてあり、その数の異様さに圧倒される。
一見すると、「迷惑をかけるのはやめましょう」という普通の注意書きに見える。
だが、宮下公園では長らく、行政によるホームレスの排除が行われてきたという歴史があり、それを知っていれば、そんなに単純な話でないことは明らかだ。
この流れはジェントリフィケーション(都市の富裕化)という現象で説明できそうだ。もともと渋谷は、サブカルチャーの聖地の一つだった。こんなことを言っては申し訳ないのだが、決して富裕ではなく「道徳的に優れている」わけでもないような人々が、この街の文化を作ってきたし、それがある時代を作ったこともある。
そんな街に、資本が入るとあっという間に”整う”。美しく衛生的な街になるだろう。
だが、そこに生きる、一般的に「美しく」もなければ「衛生的」でもないとされる人たちはどうなるだろうか。
その答えはすでに出ている。排除されるのだ。
それも「区立」と名のある公的施設である公園から、市民の一人であるホームレスが排除される異常事態が起こっているのだ。それも、「ダイバーシティ(多様性)とインクルージョン(包摂)」をうたっている渋谷区で、だ。
ここでミヤシタパーク公式ホームページの「コンセプト」を引用する。*1
卵とキャラメルが出会って、プリンが生まれた。
出会いって、愛。組み合わせって、未来かも。
公園の下に、ハイブランド。
ハイブランドの横に、飲み屋横丁。
ホテルも珈琲屋もレコードショップもギャラリーも、
混ざってくっついたらどうなるんだろう。
ごちゃっと自由に、ここは公園のASHITA。
その全部があたらしくなった、MIYASHITA PARK。
さあ開業、開園です。
ニンゲンも風も花も鳥も、どうぞいらしてください。
そもそもが不可解な文章なのだが…。
ミヤシタパークが言う「ごちゃっと自由に」「ニンゲンも...どうぞいらしてください」には、結局のところホームレスをはじめとする「見たくないもの」という”例外”があるのだ。
コンセプトについてさらに言及する。
渋谷は確かに、「カオス」さが”売り”の街だ。それこそが「多様性」だったりするわけだ。
だが、実際にミヤシタパークを訪れた感想としては、「とりあえず詰め込みました」感が滲み出ていた。つまり、商業施設としては、むしろ”普通のショッピングモール”とあまり変わりなく、目新しさという点でもいまいちなのである。
同じように公園的な施設と商業施設が融合している東京ミッドタウンなどは、土地柄もあるだろうが施設として洗練されており、どこか落ち着く雰囲気がある。
一方のミヤシタ・パークはただ「詰め込んだだけ」なのだ。コンセプトの文章から何も感じ取れないのと同様に、施設そのものも中途半端だった。
申し訳ないが、客層もそれなりという感じだった。
ギャル文化などは、渋谷に集まる一人一人が「表現者」として文化を作ってきた。スケボー少年たちだって自身で技を磨くなどしていただろう。
彼らはある意味で、「枠からはみ出した」人々だった。そうした人たちが渋谷を構成してきた。
そんな街で、上から「枠」を設け、その「上からの多様性」からはみ出した人間を排除しようという試みこそが、ミヤシタパークのこの有様というわけだ。
もちろん、防災や衛生といった要素は都市づくりでも必要になっていくだろう。だが、少なくとも、それがホームレスという一市民を行政が排除する理由にはならない。
そして何より、渋谷という街を本当に”理解”していたのなら、宮下公園がどこにでもあるショッピングモールになるなんてことはなかったのではないか、と感じるのである。